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ウォータールー()は、アメリカ合衆国アイオワ州ブラックホーク郡の都市であり、同郡の郡庁所在地である。2010年の国勢調査では人口68,406 人だった。人口では州内第6位の都市である〔http://www.census.gov/popest/data/cities/totals/2011/files/SUB-EST2011-IP.csv〕。ウォータールー・シーダーフォールズ大都市圏の主要都市である。 == 歴史 == ウォータールーとなった地域は「プレーリー・ラピッズ・クロッシング」と呼ばれていた。現在の市内にあるグラウト博物館スタッフが報告した初期研究に拠れば、シーダー川沿いにあったメスクワキ族インディアンの季節による宿営地2か所近くに町が設立された。1845年、ジョージ・ハンナとメアリー・メルローズの夫妻と子供達がレッドシーダー川(現在のシーダー川)東岸に入ったのが始まりだった。1846年にはバーデンとミューランの家族が続いた。これら初期開拓者の名前が現在の市内の通りやクリークの名称として残っている。 1845年12月8日、「アイオワ・ステート・レジスター・アンド・ウォータールー・ヘラルド」が市内初の新聞として発刊された。 チャールズ・ミューランが町に郵便局の設立を請願した直後に当初の町名「プレーリー・ラピッズ・クロッシング」から「ウォータールー」に改名された。署名請願書に郵便局の場所名が入っていなかったので、ミューランは請願書提出の際に名称の選択を任された。伝承に拠れば、国内の郵便局名リストを見ていたときに、「ウォータールー」という名前に思い至ったとされている。ミューランはこの名前に飛びつき、1851年12月29日、その名前を冠する郵便局が設立された。町も同名で呼ばれるようになり、ミューランは1851年12月29日から1854年8月11日まで初代郵便局長を務めた。 その後の115年間で2回、町の急速な成長期があった。1895年から1915年、人口は8,490人から33,097人と290%伸びた。1925年から1960年は36,771人から71,755人に伸びた。1895年から1915年の期間は製造業、鉄道交通および卸売業が急速に成長した時代だった。この期間にウォータールー・ガソリン・トラクション・エンジン社がウォータールーに移転してきており、またその直後にはラス・パッキング社がダビュークから移転してきた。20世紀前半の3分の2は、イリノイ・セントラル鉄道が大規模雇用主だった。また自動車の黄銅時代のメーカー、メイタグ・メイソン自動車会社もあったが、あまり成功しなかった〔Clymer, Floyd. ''Treasury of Early American Automobiles, 1877–1925'' (New York: Bonanza Books, 1950), p.93.〕。 1934年6月7日、銀行強盗のトミー・キャロルがその妻と共にガソリンスタンドに立ち寄ったときに、FBIとの銃撃戦になった。偶々警官の車の横に駐車し、落とした銃を拾い上げているときにタイミングを失し、通りに逃げたときに銃で撃たれた。キャロルはウォータールーのアレン記念病院に担ぎ込まれたが、間もなく息を引き取った。 1980年代の農業不況のときは、主要な雇用主が農業に強く依存していたので、特に厳しい時代となった。地域最大の雇用主であるジョン・ディアは1万人の首を切り、ラス食肉加工工場が閉鎖されてさらに2,500人分の職が失われた。この期間に市の人口は14%減少した。今日のウォータールー市は幅広い産業基盤があり、市の指導層は工業と商業の混じった多様化形態を追求している。ディアは現在も存在感があるが、最盛期の約3分の1しか雇用していない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウォータールー (アイオワ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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